武漢

中国武漢コロナウイルスの問題。

深刻なことに憂慮している。なぜかと言えば、武漢は妻の故郷だからだ。

二年前の夏に、妻と武漢に行った。

黄鶴楼を見たり、妻の弟の案内で外食し、食事を楽しんだ。

街を歩いていてすぐに気付くのは「衛生面」のこと。

公衆便所においては、使うことをためらった。ひどく汚い。

早朝に、市に雇われた掃除婦たちが街を清掃しているのを確認したが

求める清潔さの概念が日本とはちがうのだと分かる。

コロナウイルスは市場の野生生物から検出されているが

様々な野生生物を食す以上、発症の危険はあった。

日本でも牛や豚のレバ刺しの生食が問題になったが、その比ではないと想像できる。

武漢にいる妻の両親と連絡を取ってはいるが、かなり厳しい状態にある。

義母は癌の抗がん剤治療ができずにいる。

家にはあと三日分の食料しかなく、支援物資などもなく、武漢は閉じ込めの状態。街に入ることも、出ることもできない。

何もしてあげられないという苦しみ。

「精神的な死」が、妻の家族を襲っている。

水や食べ物が先決なのに、スーパーは空っぽで何もない状態なのだ。焦ったところで何も手に入らない。

先月、こちらから武漢に送った荷物(義母への介護用品やお菓子など)も向こうの税関で止まったまま。

 

現在、日本でもマスクが品切れになっており、価格の高いものしか手に入らない状態。

飛沫感染ゆえ、マスクをしても眼に菌が入れば必ず感染するから、蔓延した場合はマスクだけでは防ぎようもない。

それに、どう考えても国内に相当数の感染者がいるだろう。

報道など何の当てにもならない。

 

ふと思う。

もし武漢にいたら、自分はどう行動するだろうか。

パニックになり、食料と医療を求めて争うだろうが、それも気力のあるうちだろう。

どこかで、あきらめるのではないかと思う。

可能性があるうちは人は戦える。

しかしそれが確実にだめだと分かったときは行動できなくなる。

それは死を意味する。

コロナウイルスだけでなく、世界には戦争や犯罪の様々な事象があり、スポーツや社会においても常に勝利していかなくては「生き残れない」競争という図式が、そもそも人間を歪めている。格差や貧困などなくなりはしない。

ウイルスの噂が立てば、マスクを買い占め、食料や水を争奪し、車のガソリンも満タンにしなければ生き残れない。原則的に人は奪い合うもの。

冷めた眼でこの世界を見つめている。

僕は自分の子を持たなかった。

この世界に自分の子を持つことを考えられなかったし、親に説得されても、その考えを変えることはできなかった。

全ての人がそうとは言わないが

誰でも、自分の親が、兄弟が、子供が安全であれば良いのだから。

「他人」に対する情も、自分の家族が無事であって、初めて持ち合わせることができる。

理はない。本能や感情がそうさせている。

そうならば、子を持たずに

ゆっくりと自分を終えていけば良いと僕は思うようになった。

 

ここに記録として記す。