供述によるとペレイラは、、、

昨日は一日雨。

ガブリエル・ガルシア=マルケスが愛読したという、セルバンテス作「ドン・キホーテ岩波文庫、前編1を早朝から一気に読んだ。笑った。続きは図書館にリクエストしているが、コロナの影響で閉館しているのであきらめて、机に横積みしている本の中から「供述によるとペレイラは、、、」アントニオ・タブッキ著 須賀敦子訳を手に取りこれも一気に読んだ。

 

「カルトーゾ医師が遠ざかっていくのを見ながら、ペレイラは、なにかなつかしい気がした。まるで、とりかえしのつかない別れだった気がした。ペレイラはパレーデの海洋療法クリニックですごした一週間のことを考えた、カルトーゾ医師と話したことについて、それから、自分の孤独について。カルトーゾ医師がそとに出て街に消えてしまうと、彼はとり残された気持になり、じぶんがしんそこ孤独に思えた。それから、ほんとうに孤独なときこそ、じぶんのなかのたましいの集団に命令する主導的エゴとあい対するときが来ているのだと気づいた。そう考えてはみたのだが、すっかり安心したわけではなかった。それどころか、なにが、といわれるとよくわからないのだが、なにかが恋しくなった。それはこれまで生きてきた人生への郷愁であり、たぶん、これからの人生への深い思いなのだったと、そうペレイラは供述している。」

 

人生における「喪失」と「悔恨」が書かれている小説だった。1938年。主人公ペレイラは妻を病気で亡くしている。体制に準ずる記者の立場に身を置きながら、ある青年と出会う。自らの意に反しながらも、国の体制に抗う若き青年を匿い、やがてはポルトガルの政治警察に追われる身となるペレイラ。保守的な人間であったペレイラの、精神の変革の仮定。死した青年。警察から逃げ惑い、弱くも必死に戦うその姿は保守的なはずのペレイラを変えていく。負け戦でも屈しない青年の魂にペレイラの心が動いていく。面白く読んだ。

 

今日は快晴。妻と散歩をして帰宅し、ゴールディング「蠅の王」を読み始める。

「自粛」を促されても、本によって精神はどこまでも飛行する。笑

 

次回は、ずっと取り組んだジャズについて書こうと思う。

鋭敏さと「予告された扉の言葉」について

『だから、言ったじゃないか。もう俺は知らないぜ』

おじさんのそんな言葉が夢に出てきて、朝早く起き出してパソコンを開いた。

 

《 類としての人心の驕慢と廃疾は現象界に転移した 荒廃し傷んだ自然は あらゆる天然の「暴虐」となって人間存在を襲う 老生は真昼の流星群の下 懐死する大地と怒る気象を もはや手遅れと 無情に眺めている 》 関心空間 2002/06/19 登録

 

見事なまでに「今の世界」が予告されている。

きちんと読んでいれば覚えているし、言葉は記憶から引き出せる。

僕は覚えている。

視える人には見え、言葉への置換が可能となる地平があり、愚鈍な者には到底適わない思索の領域がある。

「外部に置かれた記憶」である本に見聞きし、学ぶことが大切と思う。

 

様変わりした世界。

ウイルスという「暴虐」に人々は震撼し、閉じ込めを喰らう。

感染の蔓延を防ぐべく、後手に始まる都心に見る様々な対処。

3つの「密」を避けてとのこと。密閉。密集。密接。

それでも朝の通勤電車はいまだに満員御礼と言っても過言ではない。それぞれに生活があり、仕事があり、、、。社畜の皆様、お勤めご苦労様です、僕も「その一員」です。自虐ながら、毎日会社に通っている。

「お疲れ様です。今さらとは思いますが、この世界は本当に変だとは思いませんか?」冗談抜きで、つり革を握りながらスマホ片手にドラマを見ているサラリーマンに話しかける寸前にまで来ている。笑

 

ほとんどの人間は「本気」に考えないし、思わないのだ。

良い大学を出て、高収入の仕事に就き、互いにサイズの合った人と結婚をして自分なりの「完璧」を手にしようとも、自分の愚かさを見つめようとはしない、ましてや考えてなどいない。自省はない。

それだから「世界」で起きようとしている現象に対して、鋭敏に反応できない。

家や車、洋服に旅行、我が子の幸せ、、、ただただ内向きの願いに時を過ごす。例えば、年齢を気にして急な結婚をし、二人の子供を産んで離婚。理由は夫との経済的不一致。そんなシングルマザーとなった同級生が、かつて驚くほどいた。

口なんか出さないが「ねえ、久々に飲みに行かない?」と誘われて誰が行くというのか。「愚痴とセックスは他所でしてくれ」と思う。本当にそうした人が多いのだ。遠くを見つめられない人々が沢山いる。

 

それだから、天然の「暴虐」が啓示となって、人間を蹂躙するのだ。

 

おじさん。この世界は悪くなる一方ですね。

それでも、なんとか生きていこうと思います。

おじさんもお元気で。

 

ずっと本棚にあって手に取らなかった、マルケスの「百年の孤独」を読み終わろうとしている。読んでいて、バッハの平均律クラヴィーアを通して聴くのと同じような感覚があった。読みながらくる「疲れ」は物事を知らないことから来る。興が湧かない。バッハは音のインターヴァルなど、理論を知ると聴き方、聞こえ方が変わる。一気に面白くなる。マルケスを読んでいて、そんな似た感覚があった。

あれもこれも盛り込むといった文章の勢いに押されつつ、疲れを感じた。でも、物語はこうでいいのだなとも思った。書き進む圧倒的な強さを「百年の孤独」に視た。

 

 

これから

新型コロナウイルス

ウイルス発生のその真相はいかなるものか。さすがに黒い影があるように思えてならない。

SNSでは生物兵器を疑う記事や動画が増えている。なぜこのような惨事を生むことになったのかが気になる。

武漢に住む妻の家族はウイルスに罹ることなく、閉じ籠りの日々を今も過ごしている。

市の支援サイトを使用して食材を注文し、受け渡しは対人を避けて所定された場所に個々に取りにいく手順を踏んでいるとの事だった。

お粥が主食で、酒やお菓子、ケーキの類は今も入手できないとこぼすも、昔の貧乏生活を思えば大した事ではないと力強く言っている。

日本も感染者が増えはじめて、経済の滞りも著しい。

個人で営む店はもろく、簡単に淘汰されてしまうだろう。

国が貸付支援をしたどころで、持ち直す好景気が来るとは到底思えない。対策がずれている。

個人的にはスポーツに興味はがないが、オリンピックどころではない。国はエネルギーを使う方向を変えることができないだけだ。開催の為に、安易な対策を取るに決まっている。とにかく金なのだ。

お店からはマスクがなくなり、紙類もオイルショック時のように一瞬にして無くなる。ささくれ立つ人間たち。

通勤に使う西武池袋線は相変わらずの満員振りだか、皆が皆マスクをし、咳をする人がいれば車両を変える人がいたりと、殺伐としている。

会社を含めて自分の生活する身近な場所で感染者が出るのも時間の問題だろう。

現に、会社では連日飲み会が行われているし、そこまでみんな危機感を持ってはいないのだ。

僕は完全に飲みの誘いは断っているし、休みも出かけていない。

この状況に世界はどう対処していくのか。

人間に与えられたこの試練が何を意味するのか。

日々読んでいる聖書が、また深く大きな意味を持ちはじめる。

今は、ただ只管に本を読んでいる。

本だけが我が精神を救ってくれている。

武漢

中国武漢コロナウイルスの問題。

深刻なことに憂慮している。なぜかと言えば、武漢は妻の故郷だからだ。

二年前の夏に、妻と武漢に行った。

黄鶴楼を見たり、妻の弟の案内で外食し、食事を楽しんだ。

街を歩いていてすぐに気付くのは「衛生面」のこと。

公衆便所においては、使うことをためらった。ひどく汚い。

早朝に、市に雇われた掃除婦たちが街を清掃しているのを確認したが

求める清潔さの概念が日本とはちがうのだと分かる。

コロナウイルスは市場の野生生物から検出されているが

様々な野生生物を食す以上、発症の危険はあった。

日本でも牛や豚のレバ刺しの生食が問題になったが、その比ではないと想像できる。

武漢にいる妻の両親と連絡を取ってはいるが、かなり厳しい状態にある。

義母は癌の抗がん剤治療ができずにいる。

家にはあと三日分の食料しかなく、支援物資などもなく、武漢は閉じ込めの状態。街に入ることも、出ることもできない。

何もしてあげられないという苦しみ。

「精神的な死」が、妻の家族を襲っている。

水や食べ物が先決なのに、スーパーは空っぽで何もない状態なのだ。焦ったところで何も手に入らない。

先月、こちらから武漢に送った荷物(義母への介護用品やお菓子など)も向こうの税関で止まったまま。

 

現在、日本でもマスクが品切れになっており、価格の高いものしか手に入らない状態。

飛沫感染ゆえ、マスクをしても眼に菌が入れば必ず感染するから、蔓延した場合はマスクだけでは防ぎようもない。

それに、どう考えても国内に相当数の感染者がいるだろう。

報道など何の当てにもならない。

 

ふと思う。

もし武漢にいたら、自分はどう行動するだろうか。

パニックになり、食料と医療を求めて争うだろうが、それも気力のあるうちだろう。

どこかで、あきらめるのではないかと思う。

可能性があるうちは人は戦える。

しかしそれが確実にだめだと分かったときは行動できなくなる。

それは死を意味する。

コロナウイルスだけでなく、世界には戦争や犯罪の様々な事象があり、スポーツや社会においても常に勝利していかなくては「生き残れない」競争という図式が、そもそも人間を歪めている。格差や貧困などなくなりはしない。

ウイルスの噂が立てば、マスクを買い占め、食料や水を争奪し、車のガソリンも満タンにしなければ生き残れない。原則的に人は奪い合うもの。

冷めた眼でこの世界を見つめている。

僕は自分の子を持たなかった。

この世界に自分の子を持つことを考えられなかったし、親に説得されても、その考えを変えることはできなかった。

全ての人がそうとは言わないが

誰でも、自分の親が、兄弟が、子供が安全であれば良いのだから。

「他人」に対する情も、自分の家族が無事であって、初めて持ち合わせることができる。

理はない。本能や感情がそうさせている。

そうならば、子を持たずに

ゆっくりと自分を終えていけば良いと僕は思うようになった。

 

ここに記録として記す。

 

 

 

再考しなければならないこと

久しぶりの投稿。

放射線被ばく CT検査でがんになる」 近藤誠 著

を図書館で借りて読んでいる。

動脈瘤が見つかり、年一回、造影剤を投与してCT検査をしていくことで

瘤の大きさをチェックしていくことを医師と話し、

先月にも撮影をして、瘤が大きくなっていないことを、3D画像を見て

確認して「安心」を手にしたつもりでいたのだが、、、。

たまたま読んだこの本によって「治療被ばく」を知り、被ばく線量の高い

血管造影剤を投与するCT検査を今後はやるべきではないと、思うに至る。

《さらに、この種の幾つかの本を読んで知識を取り入れて、考えを整理しようと思うのだが、患者側(自分)は医師の言葉を鵜呑みにしてしまい、言われるままに疑問を持たずに検査を受けることになる。検査リスクの知識がないことの問題》

病気もさることながら、検査によって「被ばくしている」という見えない現実がある。

一回の検査で、およそ2000ミリグレイの線量を浴びている。

それじゃ、どうればいい、、、とも思うが何もしないに越したことはない。笑

 

詩人の山尾三省は、胃癌で苦しみながらも、熟慮の末に延命治療をせず、その命を終えて逝ったことが本に書かれていたのを、ふと思い出す。

意思の力の方が、よほど大切だ。

考えたら切りがないが、急を要する痛みや症状がないのだから、のらりくらりとやっていこうと思うが、より一層「知識」が大切になる。

         ・

休日。

朝、妻が仕事に行ったあとに朝食で使った食器を洗って、洗濯物と布団を干してから、ジャージに着替えて、1時間ほどウオーキングに外へ出る。

ワイヤレスイヤホーンをつけて、iphoneアマゾンプライムミュージックでジャズを聴きながら、伏見通りを早歩き。公園を終点に往復して汗を流し、帰宅してから本の世界へと入る。

(最近、駅前のTSUTAYAがなくなった。映画も音楽もレンタルせずにインターネットで簡単に手に入る昨今。そう時間もかからずにDVDもCDもなくなってゆく。自分自身も、ここ一年は全くCDを買っていない。

通勤電車の中ではipadで新聞記事や電子書籍を見ているサラリーマンが多く、本を読んでいる人と比して半々ぐらいだろうか、、、

色々と思うことはあるけれど、簡単、便利であることで人は外に出かけなくなる。障害がなくなる。このことは面倒を厭う人間を育て、人の介在を遠ざける内向的な大人を作るのではないか)

 

今日は「周恩来秘録」上巻 高文謙 著 上村幸治 訳 に着手した。 

 

 

 

長い梅雨、曇りの日々が続く。

自分と妻の健康問題に始まり、親の老後の事など、悩みは尽きないが

開き直ってもいる。

そんな時こそ楽しむ術を駆使して、憂いに沈むモードを断ち切る。笑

リルケも度々読んでいたという聖書の「ヨブ記」を読み、

神保町で買った、岩波文庫法華経」を読んでいる。

小説はトーマス・マンの「魔の山」を。

目が疲れて文字を拾えない時はギターを弾く。

ジム・ホールやメセニーが愛したジャズスタンダード、

「ALL THE THINGS YOU ARE」 は何度弾いても飽きない。

(ジム・ホールの弟子である井上智さんが帰国しているのを知って

二年ほど、井上さんのレッスンを受けてジャズを学んだ。)

ジャズには「考える」面白さがある。

       ・

そういえば、キース・ジャレットは昨年から活動を停止したままだ。

健康問題による公演延期が発表され、そのまま延期公演も消滅。

(5,6年前に行った渋谷オーチャードホールでのキースの公演。

観客の咳、傘などのものが倒れる「雑音」で、

明かに演奏に支障を来しているのが分かった。

演奏するキースの体はビクンと反応し、奏でていたメロディも

変容し、途切れてしまう。集中力が削がれるのだ。

上ろうとしても引き摺り下ろされてしまう、、、そんな感じに見えた。)

色々なプロの演奏を観にいったけれど、やはりキースがダントツだった。

音楽の、ある地平に深く下りていく様は圧倒的だった。

その空間に存在する「透明な狂気」に痺れた。

そんなキース・ジャレットを観たいと思う今日この頃だが、、、。

年齢もあるし、来日はもう難しいかな。

間もなく夏到来、暑い夜にはジャズが合う。

若き日を過ぎて思う

「共食いの島」スターリンの知られざるグラーグ ニコラ・ヴェルト著 根岸隆夫訳

を読んでいる。

桜も散り始めて、春も通り過ぎようとしている。

昭和の「あの感じ」にまだ未練があるというのに、平成までもが終わる。

「あの感じ」とはロックバンドに打ち込み、平気で朝まで酒を呑んだり、吉祥寺の風呂無しアパートに十年近く住み、銭湯に通っていた若き日の「温かな記憶」だ。

居酒屋や銭湯で隣り合った知らぬ人と言葉を交わし、社会というものを自分なりにあちこちで感じていたあの頃。

昭和には「信じられる」自分がいた。平成になり歳を重ねて、それが「若さ」なのだと気付くのだけど。笑

金と性に目覚めた沢山の大人たち。

その取り巻きの中で「少年」を失わずに今日も歩くのだ。

今ではロックを聴かなくなり、酒もほとんど呑まず、規則正しい生活に過ごし、風呂トイレ完備の住まいに居る。笑

 

先週のことだが

妻がキッチンで倒れた。水曜日の朝のことだ。

歯を磨く僕の隣で倒れ、何とか支えることができ、妻は頭を打たずにすんだ。

意識があったので救急車を呼ばずに近くの病院へ僕が連れていった。

パニックを恐れたし、妻が気を失うようであれば、、、もしや、、そう思い近くに寄り添っていたいと判断した。

診断結果は脳梗塞だった。

MRIの他、より詳しく調べるためにMRAと頸部エコーも受けた。入院措置もなく、とりあえずは家に二人で帰ることができた。

来週、診断結果の詳細と治療方針を二人で聞きにいく。

自分の病気に連鎖するようで言葉もなかったが、あらゆることを受け止めて前に進むしかないと思っている。

「お墓、買っておこうか」とまさかの妻の発言。汗

「それはまあ、、、そうだね」と言葉に詰まる。もちろん笑いを交えて。

令和ですか、、、。

仕事して、本読んで、規則正しく生きて行きますわ。